1 1 もう少し詳しく知りたい方へ 1 1


 (1)コメが縄文から弥生へ時代を変えた     
 
(2)日本の環境と文化はコメが作った      
 
(3)大化の改新(645年)で公地公民を宣言  
 
(4)荘園制度と武士の台頭、太閤検地      
 
(5)地租改正、コメ本位制から金納制への衝撃波 
 
(6)農地改革という一大革命          
 
(7)農地改革アレルギー            
 
(8)なぜ、農地改革が必要だったのか      
 
(9)農地改革は、共産化を防ぐため       
 
(10)不作になれば              
 
(11)農地改革の成果を守れ          
 
(12)最後の砦、農地法            
 
(13)農地法、執行するのは農業委員会     
 
(14)農業委員会等組織は「土地と人」対策が使命
 
(15)現在の課題               


(1)コメが縄文から弥生へ時代を変えた
 日本の長い歴史を、農業生産と農地所有に視点をあて、簡単に振り返ってみましょう。
 古代では、縄文時代から弥生時代への変化があります。この時代区分については 、出土される土器の形状から区分する説と、稲作の開始をもって弥生時代とする説 があります。最近では、それまで稲作がなかったと考えられていた縄文時代の遺跡 からも稲作が行われていた証拠が発見されたり、縄文時代といえども相当に文化レ ベルが高かった遺跡(青森県の三内丸山遺跡など)が発見されていますから、古代 は大きく書きかえられる可能性があります。
 考古学上における興味はさておき、農業の視点から歴史を考えた場合、稲作の開 始をもって弥生時代とする説には説得力があります。稲作、つまりはコメという作 物が存在するかしないかによって、社会経済構造に決定的な違いが生じるからです 。
 稲作という、まったくもって凄い技術が古代日本に入ったとき、古代人は目の前 の「飢え」から解放されました。家族そろって約半年はたらけば、家族人数分の数 倍の食糧が手に入ります。しかも貯蔵に耐え、おいしく、コメさえ食べていれば死 ぬことはないという完全栄養食品です。その上、これが農業上では奇跡といっても いいくらいですが、連作に耐えるということです。何年おなじ場所に作っても生産 力が落ちません。したがって定住が可能となり、集落を形成し、人口の増加が可能 となります。
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(2)日本の環境と文化はコメが作った
 労働力の再生産以上に収穫がある。これが重要な要素となります。画期的な食糧 であるコメ、そのコメが余れば当然として、それを別の何かと交換するため交易が 盛んになります。交易が盛んになれば、そこへ富みが集まります。富みがあり食糧 も豊富となれば、それを奪おうとする勢力もでてきますので、防衛手段も向上させ なければなりません。三重の濠をめぐらし、高い物見やぐら、巨大な倉庫群をもつ 大環濠集落の吉野ケ里遺跡(佐賀県)。あの大集落が成立できたのは、ひとえにコ メという作物のおかげだったことを忘れてはなりません。
 コメという作物が、その後の日本をいかに「改造」していったか。現在の日本の 環境と文化は、まさにコメが作り上げたものです。この辺の事情についてもっと詳 しく知りたい方には、富山和子氏の著書『日本の米』(中公新書)をお薦めします 。日本の歴史は、稲作がなかった時代とある時代、この2つに大別してもいいくら い、この本を読めば感動するはずです。
 縄文時代の文化も、すごいレベルにあったことが分かりつつあります。これを「 木の文化」といたしましょう。そこにはただ単に、コメがなかっただけでした。そ こへ稲作が日本に入ったことにより、一挙に弥生時代へと古代が動きます。稲作に 適した地域に集落ができ、これが次第に国を形成し、日本は小国分立状態になった ものと思われます。幾多の戦争があったことでしょうか。そのうちに邪馬台国が出 現しては消え、古墳時代を経て大和朝廷の時代へと進みます。
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(3)大化の改新(645年)で公地公民を宣言
 西暦645年、大化の改新。一度は歴史で習ったはずです。中大兄皇子(のちの 天智天皇)を中心とする古代政治上の大改革です。私有地・私有民の廃止、地方行 政権の朝廷集中、戸籍の作成、耕地調査と班田収授法の実施、税制の統一などを実 施し、中央集権国家成立の出発点となります。『公地公民』を宣言し、すべての土 地と人民を国家、すなわち君主の所有とし、私有を認めないことが、その後の律令 国家の理念となります(広辞苑から抜粋)。まったくもってすごい改革です。公地 公民なら、これは共産国家といってもいいくらいです。私有地の禁止、この原則は いったいいつまで続いたのでしょうか。
 私有地が晴れて合法となるのは西暦1873年、明治政府の地租改正まで待たね ばなりません。実に1200年以上の年月がたっています。広辞苑には「現物貢租 を金納(地価の3%)に改め、旧来の土地保有権者を土地所有権者として確定。政 府の財政的基礎を固め、商品経済化、土地の売買・賃貸借を促進し、農村経済に大 変動をもたらした」とあります。旧来の土地保有権者は、実態はそうではあっても 建前としては実は非合法な存在で、地租改正後、土地所有権者として確定されたも のが合法、こう読めます。
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(4)荘園制度と武士の台頭、太閤検地
 そんなバカなとお思いでしょう。実際、大化の改新から明治維新までの1200 年間、すべての土地が公地だったわけではありません。平安時代から室町時代にか け、荘園制度という穴抜きが横行しはじめます。貴族や寺社が荘園という私有地を まず持つようになります。これが全国に広まるとど、なるでしょうか。国家の税収 はがた落ちになります。この私有地を野盗や盗賊から守るために武士が生まれまし た。最初、武士は荘園のガードマンだったわけです。この武士がそのうち勢力をも つようになります。命をかけて荘園を守っても雇い主には頭が上がらない、こんな バカな話があるかということで鎌倉時代、荘園を力づくで奪い取ります。南北朝の 動乱から戦国時代、力づくによる領土の分捕り合戦が全国で展開されます。  そして西暦1582年から98年にかけて、全国統一を成し遂げた豊臣秀吉が太 閤検地を実施し、荘園制度は最終的に廃止されます。「この検地によって石高制が 確立し、封建領主の土地所有と小農民の土地保有とが全国的に確定」(広辞苑)、 江戸時代を経て明治維新となります。
 ちなみに封建制度とは、「天子の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自 領内の政治の全権を握る国家組織」(広辞苑)です。封建という言葉には、非合法 で力づくというイメージがあります。公地公民の後、荘園がたとえ合法だったとし ても、それを奪った武士階級の領土は非合法なものです。それを太閤検地で統一基 準を決めたにせよ、実態を追認しただけで合法化されたわけではありません。大化 の改新による公地公民という理念は、誰も守らなくなったとはいえ、原則としては 1200年間つづき、明治政府の地租改正で日本の国家としての歴史上はじめて、 個人の土地所有権が認められた。こう考えるのは、あまりに形式論すぎるでしょう か。
 日本の歴史を土地の面から整理してみましょう。
  1. 大化の改新で公地公民という崇高な理念による中央集権古代国家が誕生した。
  2. 貴族や寺社が荘園という都合のいい制度を作り、私有地を増やして公地公民の穴抜きを始めた。
  3. これを武士が略奪した。
  4. 武士どうしが争うようになり戦国時代へ。
  5. 豊臣秀吉が全国統一を果たし、封建制度のもと太閤検地を実施した。
  6. 明治維新後、政府は地租改正を実施。土地の所有権を認め、税の金納制を定めた。
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(5)地租改正、コメ本位制から金納制への衝撃波
 ところで地租改正は、「商品経済化、土地の売買・賃貸借を促進し、農村経済に 大変動をもたらした」(広辞苑)となっています。正式な貨幣という視点からみれ ば、地租改正における金納制は、これもまた歴史上の一大改革です。地租改正前の 正式な貨幣はコメという現物です。武士のサラリーはコメの禄高(量)で決められ ていたとおりです。農民が払う年貢(税)もコメという現物です。先祖、そのまた 先祖から延々とコメで税を納めてきた農民へ、これをいきなり紙幣(またはコイン )というお金で払えとなれば、現場は大混乱に陥ります。地租改正以前はコメ本位 制、以後は貨幣本位制、日本の歴史は地租改正で2分できます。
 コメを売って得た金で税金を払えばいいじゃないか。そう考えたくなりますが、 事はそう簡単にはいきません。地租は現在の固定資産税へと姿を大きく変えますが 、当時は所得税も法人税も、ましてや消費税もありません。現在の国家財政の税収 のほとんどを固定資産税で賄おうとしたら、1haの農地を持つ農家はいったいい くらの税金を払わねばならないことになるのでしょうか。
 現物ならば収穫物の一定割合ですみます。不作になれば減免もあったでしょう。 これが金納となれば、米相場に大きな影響を受けます。商品流通と貨幣経済が進展 すれば、おのずと貧富の差が生まれます。貧乏する人が一方にいれば、経済的に成 功し、財力に富む人がでてきます。貧乏すれば、農地も宅地も財力のある人へ売る しか方法がありません。幸か不幸か、地租改正で土地の売買・賃貸借が認められま した。こうして、全国の農村に大地主と多数の小作人が出現していきます。そして 西暦1945年(昭和20年)、敗戦を迎えます。
 1873年の地租改正から1945年の敗戦まで、たった72年しかたっていま せん。1世代が30年なら親子2代、多くても親子3代の間の出来事です。この間 、江戸時代にはいなかったはずの大地主が出現してくるわけですから、いかに富国 強兵、資本主義化による西欧列強仲間入りへの道で農民が疲弊・窮乏していったか 、富める者はいかにますます富んでいったか、想像できるでしょうか。
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(6)農地改革という一大革命
 戦後まもない昭和20年12月、農地調整法が一部改正されて第1次農地改革が 、翌21年10月には農地調整法の一部改正と自作農創設特別措置法が公布され、 第2次農地改革が法的に整備されます。22年2月に両法の施行細則が制定されて 農地改革が始まり、1年後の23年2月には、石川県内の小作地1万5、337haを国が 地主から買収し、それを小作人に売り渡すという農地改革が完了します。この結果 、県内6万haの農地のうち、9割までを自作地(所有者と耕作者が一致する農地 のこと)が占めることになります。こうした一大改革が全国で実施され、戦前の大 地主制が、戦後は自作農体制へと劇的に変化します。戦勝国であるアメリカ占領軍 の強い指導はあったにせよ、農地と農村の『民主化』が全国津々浦々で実現したわ けです。
 この農地改革という一大革命は、後世へ長く伝えられるべき日本の歴史上の重要 な出来事です。その後の日本における経済復興と発展は、この農地改革ぬきには実 現しなかったと言っても過言ではないでしょう。アジアで比較しますと、農地改革 を実現した日本、それが実現できず、いまだに大地主制のままのフィリピン。フィ リピンを例にあげて申し訳ありませんが、国内の農地を誰が所有するかがいかに社 会構造にとって重要事項であるか、感覚としてご理解いただけたでしょうか。
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(7)農地改革アレルギー
 「世が世なら、あそこもここも、みい〜んなウチの地面やったのに」。「それが 農地解放で、みい〜んな、とられてしもうた」。
 旧地主さんのご年配の方から、こういうため息を何度も聞いたことがあります。
 その集落に住んでおらず、都会などで生活している地主は不在村地主といい、農 村の多数の小作人に寄生しているという考え方から寄生地主とも呼ばれました。す ごい言葉でしょ。この不在村地主の農地はすべて国が買収しました。逆に、その集 落に住んでいる地主は在村地主といって区別されました。この農地をすべて買収し ますと、今度は地主さんが生活していけなくなります。そこで全部の農地を買収せ ず、一部の農地(都府県では1haまで)はそのまま地主さんのもとに残しました 。これを残存小作地といいます。
 したがって、すべての農地を国が買収したわけではありませんし、無料で地主さ んから農地を取り上げ、それを小作人へ無料で渡したわけでもありません。それな のに、地主さんの方は「国にみんな取られた」といい、小作人から晴れて自作農と なった農家は「農地解放で農地をもらった」という表現になります。買収・売渡地 価が安かったせいもありますが、今では考えられないものすごい改革だったわけで す。
 農地改革の衝撃波のすさまじさは、その後の農村に大きな影響を与えました。短 期間に上下がひっくりかえるほどの激変を経験した農業者のこころに、「農地は、 いったん人に貸したら、もう戻ってこない」という観念が強烈に刷り込まれました 。これを農地改革アレルギー、または農地法アレルギーといいます。
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(8)なぜ、農地改革が必要だったのか
 なぜ、あの頃あの日本で、明治維新に匹敵する一大改革である農地改革が、命の 犠牲なく平和的に実現できえたのでしょうか。敗戦後のドサクサだったからでしょ うか。戦争に負けた国が、勝った国のいちゃもんを聞かざるを得なかったからでし ょうか。農地改革では血は流れなかったものの、その前の戦争でおびただしい命の 犠牲があったからでしょうか。
 確かに農地改革は、敗戦直後に実施されました。上記の理由は、なぜ「あの時」 に実現しえたのかという問いに対する世俗的な答えとしては分かりやすいものです 。しかし、なぜ農地改革だったのか、なぜ農地の所有権を大地主から小作人(耕作 者)へ、それも急いで渡す必要があったのか。この問いには別な答えが必要です。  教科書ふうにいえばこうなります。大地主制と財閥が帝国大日本を支え、これが 戦争を引き起こした。二度と戦争を起こさせないようにするには、この二大勢力を 解体する必要があった。または、戦後の食料難を早急に解決するためには農業生産 力を向上させる必要があった。そのためには耕作者が農地を所有する必要があった (耕作者主義)。一言でいえば、日本の『民主化』に必要だったとなります。
 しかし、民主化という言葉はなんとなく理解はできても、ピンとくる分かりやす い言葉ではありません。実はもっと具体的に分かりやすい説明があります。ほとん ど教科書などには載ってはおりません。次の説明が本質中の本質だったためか、そ の当時はタブーだったのかも知れません。
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(9)農地改革は、共産化を防ぐため
 「農地改革は、日本の共産化を防ぐためだった」。
 これが現実には最も分かりやすい説明です。敗戦から5年過ぎた昭和25年、朝 鮮戦争が始まっています。米ソ対立、資本主義(民主主義ともいう)か共産主義か のイデオロギー対立、これが朝鮮半島を舞台に現実として不幸な火花をちらします 。朝鮮半島の北緯38度線は南北朝鮮の国境ではなく、今でも『休戦』ラインにし か過ぎません。旧ソ連の共産主義が中国から朝鮮半島、そして日本から東南アジア へと、とめどもなく南下してくるのが避けられないという第2次世界大戦後の国際 情勢。米欧の西側諸国にとっては、これをどこかでくい止める必要がある。現実と してくい止めることができたのが、朝鮮半島の38度線だったわけです。
 いずれ朝鮮半島でドンパチが始まる、その時、日本は西側諸国の後方支援基地と ならなければならない。ところが、日本が先に共産化してしまっては、何のために 多大な犠牲をはらって日本に勝ったのか、アメリカにとっては元も子もなくなるわ けです。だから、急いで一大革命である農地改革をすみやかに実行する必要があっ た。
 日本共産党が国政選挙で躍進しているからといっても、共産党が政権をとり日本 が共産化する、これが現実になるとは、ほとんどの人が思ってはいないでしょう。 敗戦直後の日本ではどうだったでしょうか。共産主義が嫌いな人にとっては非常に 危険な瞬間、共産主義が好きな人にとっては千載一遇の大チャンスだったわけです 。
 少数の大地主が広大な農地を所有しています。農地も、自分が住んでいる宅地も 地主から借りている多数の小作人がいます。たいがいは貧乏で、汗を流してコメを 手作業で作り、年貢を大地主へ納めています。しかも、敗戦後の経済社会情勢が大 混乱に陥っている時、ここへ共産主義思想が入るとどうなるでしょうか。  「農地も宅地も、どんな土地も、地主のものではなくて国家のものだ。これから は、汗水ながして働いた人が報われる世の中にしようぜ」。一挙に共産化してしま っても不思議ではないでしょう。
 「日本を共産主義から守るためだ。分かってくれ」と、国の指導者から頼まれた という大地主さんの述懐を直接聞いたことがあります。これが本質です。したがっ て、「世が世なら、あそこもここもオラの土地」という旧地主さんの多くのボヤキ は、「世が世なら、あそこもここも国の土地」となっていたはずです。
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(10)不作になれば
 農地も含めて、土地はいったいだれのものであるのか。これが社会構造の基本を 決定します。個人の所有権をどこまで認めるのか、あるいは一切認めず、すべて国 家のものとするのか。これは大変な問題なわけです。
 農地改革では地主の小作地が、その小作地を耕していた小作人(耕作者)へと解 放され、小作農は自作農へとそれこそ一夜にして「昇格」しました。しかし、地主 は農地だけたくさん持っていたわけではありません。宅地も山林も、実はたくさん 持っていたわけです。宅地も山林も農地ではないので解放されなかった。いいかえ れば、地主の手元に温存されたわけです。ですから、今でも農村にいけば、その後 、没落や貧乏さえしていなければ、旧地主さんは宅地も山林もたくさん持っている 例が多いはずです。
 しかしながら、農地はそれを耕作する人の手に渡りました。この事実が、その後 の日本の経済発展を農村から支える原動力となります。結果論ではそう言えますが 、当時としては、農地を小作人に渡しただけでは、実は完全ではなかったのです。 それがすぐに元にもどる可能性が高かったからです。早い話、「貧乏人の小作人へ 農地を渡しても、以前として貧乏のまま」だったからです。
 これまでの蓄積が皆無に等しく、経済的に自立できる基盤は、農地の所有権がい くら与えられても、すぐには改善しません。したがって、たった一度の不作がくれ ば、たちまち窮乏してしまいます。実際、昭和30年代や40年代の始め頃まで、 冷害になりやすい東北地方の農山村では、不作のために娘を売ったという例を聞い たことがあります。
 あなたなら、どうしますか。不作で収入がなく、借金ばかりが増え、家族が来年 の収穫まで生きのびるためには何かを売らねばならない。その時、自分が育てた娘 から売りますか、それとも農地改革で国からもらった農地から売りますか。答えは 簡単でしょう。貧乏すれば、まっさきに農地から売っていく。これが続けば、あっ というまに農地改革の成果は元のもくあみになってしまいます。  そうならないために、つまり、農地改革で実現した自作農体制が戦前の大地主制 へ戻らないために、その目的こそが、農地改革後にできた農業関係の法律や農業団 体の最重要事項となります。
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(11)農地改革の成果を守れ
 戦後、いまでも続く農業関係の重要法律が続々と生まれます。これを、「農地改 革の成果を守るため」という視点から解説してみましょう。
 農地改革は、昭和20年12月に第1次農地改革、同21年10月に第2次農地 改革のための法律ができます。
 その翌年にあたる昭和22年11月、農業協同組合法ができます。「貧乏人どう しが集まって組合を作りなさい。金が余ったら貯金し、困った人がいたら貸してあ げなさい。肥料や農薬は共同購入で安く買い、できた農産物は共同で売って高く売 りなさい」。つまりは、そもそもの貧乏な状態から経済的に脱却しなければならな い、そのためにはお互いに助け合おうというものが農協(JA)だったわけです。
 農協法公布の翌月にあたる昭和22年12月、農業災害補償法ができます。災害 にあった時のほか、不作や病害虫被害からの救済措置です。農作物に共済掛金とい う一種の保険金を耕作者からかけさせ、不作になったら減収に応じて共済金を支給 するというものです。こうして全国に農業共済組合(ノーサイ)が整備されます。
 昭和24年6月、土地改良法ができます。耕作者が土地改良区という組織を作り 、国も応援しますが自分たちも投資して生産力が一挙にあがるよう、農地の区画も 農道も水利施設も土壌状態も改良していく大工事を進めましょうというものです。 たとえ小作地ではあっても、土地改良事業にはその農地の耕作者(小作人)が参加 することを原則としています。
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(12)最後の砦、農地法
 農地改革後、その成果を守るために、耕作者の経済的自立を促すため農協をつく り、不作に対応するため作物共済制度をつくり、農地の生産性を上げるため土地改 良制度をつくっています。あの手この手、これでもかというぐらいでしょう。
 ところが、貧乏な状態にあった小作人に農地を安く売り渡し、農協をつくり、農 作物に保険をかけさせ、土地改良をうながしてみたところで、そう簡単に早い段階 で裕福に耕作者がなれるほど、実際には甘くはありません。貧乏は貧乏のまま、ち ょっと何かあればたちまち窮乏してしまい、もう立ち直れません。したがって、何 かあれば農地をまっさきに手放してしまう例が全国で続出します。そこで、満を持 して昭和27年に登場するのが「農地法」です。
 農地法では、耕作しない人の農地取得を禁じています(不耕作目的による農地取 得の禁止)。一定面積以上の小作地を持つことも禁じています(小作地の所有制限 )。この2つの歯止めで、地主階級が復権する条件を消してしまいました。
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(13)農地法、執行するのは農業委員会
 昭和21年から23年にかけて市町村に設けられた農地委員会、農業調整委員会 、農業改良委員会の3委員会を統合した農業委員会が昭和26年、全国の各市町村 に設置され、公職選挙法に準じて第1回の農業委員選挙が実施され、今日に至って います。
 市町村農業委員会は、農業者からの直接選挙によって選ばれる委員(選挙委員) を中心に構成され、これにJAと農業共済組合、議会から推薦された委員(選任委 員)が加わります。この委員のことを農業委員と言い、任期は3年です。石川県で は1市町村に平均20人弱、約800人の農業委員がいます。
 農業委員会等に関する法律(以下、農委法と略)に基づいて農業会議は各都道府 県に一つずつ設置されており、石川県にあるのが石川県農業会議です。昭和29年 に農委法が改正されて誕生しました。前身は昭和26年に設立された石川県農業委 員会、そのまた前身は昭和22年に設立された石川県農地委員会です。
 いくら立派な農地法という法律を作っても、それを実行したり守ったりする機関 がなければ法律は生きません。農地法を有効ならしめるために、それが制定される 前年に農業委員会が全国に整備されたと言えましょう。その3年後には都道府県農 業会議と全国農業会議所が設立され、農業委員会等組織が全国組織としても整備さ れました。こうした経緯がありますので、農業委員会は俗称「農地法の番人」とも 呼ばれています。
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(14)農業委員会等組織は「土地と人」対策が使命
 農業委員会は農地法などの許認可権限を持つ「行政委員会」です。したがって、 農業委員は特別職の非常勤地方公務員であり、事務局は市役所や町村役場内にあり ます。一方、農業委員の大半は公職選挙法に準じた直接選挙によって農業者から選 ばれるため、農業委員会は「農業者の利益代表機関」としての性格を併せ持ってい ます。要約すれば、農業委員会は行政としての顔と農業団体としての顔、ふたつの 顔を持っていると言えましょう。
 このふたつの性格のうち、農業団体としての役割を重視して都道府県農業会議と 全国農業会議所が設けられました。したがって、両者は行政ではなくて農業団体と なっています。
 市町村農業委員会が全国各地に設置された翌27年、農地法が制定されています 。その後さまざまな改正を経ていますが、基本理念は変わっておりません。その理 念とは、「農地はその耕作者みずからが所有することを最も適当である」と認める ことです。これを耕作者主義といいます。この耕作者主義という原則に立ちながら 、「耕作者の地位の安定と農業生産力の増進とを図ること」が農地法の目的です( 農地法第1条)。したがって、農地法の目的は耕作者主義のもと、農地を守ること と農業者を育てること、この2つに要約できます。このため、農業会議を含めた農 業委員会等組織では、「土地と人」対策が当初からの運動スローガンとなっていま す。
 農地を守り、農業者を育成すること、これが私たち農業会議(農業委員会等組織 )の使命です。
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(15)現在の課題
 戦後も50年たった現在、課題の第一は、農地の流動化をいかに進め、農業を職 業であり産業であると考える経営体を、いかに数多く育てるかにあります。農地価 格は全国的な地価高騰のあおりをモロに受け、農業収益ではとうてい買えない価格 にまで跳ね上がってしまいました。そうなれば、農地は借りて規模拡大を進めるし かありません。農地を、農業をやめる人から担い手へ、これが農地流動化です。と ころが、農地改革アレルギーが強かったため、これがなかなか進みにくいのです。 昭和55年に農用地利用増進法、平成5年に農業経営基盤強化促進法を制定し、国 をあげて安心できる農地の貸し借りをPRし、農業委員会等組織も全力で努力して いるところです。
 課題の第二は、農地法の存在意義です。農地法の理念であった耕作者主義は、借 地型大規模経営の出現と農地流動化の精神、これと真っ向から矛盾します。いま農 地法の改正で農業外部から注目を浴びているのが、転用規制の緩和と農業への株式 会社参入問題です。前者は、開発サイドからは農地法がじゃまになり、後者は、農 業に参入したいのに農地法がじゃましているというものです。意味しているものは 全く違います
 いま農業基本法(昭和35年制定)の改正が農政上の最重要課題となっています 。食料・農業・農村基本問題調査会が1年半の検討を終え、政府へ最終答申を行い ます(平成10年9月)。その後、農業基本法はじめ各種の法律も時代にあうよう 改正されていくことになります。
 最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。現在、日本の食料は穀物 自給率で29%です。とうとう3割を切ってしまいました。国内農地がどんどん開 発され、皮肉にも海外では遺伝子組み換え作物がどんどん開発され、どんどん日本 の食卓へ姿をかえて入ってきています。古代ローマ帝国は、征服した国々から農産 物をローマに集め、ぜいの限りを尽くして滅びました。あなたは日本の国内に、ど れだけの農地があれば安心できるのでしょうか。
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